|
上田城 ( 真田家40年 →仙石家85年→ 松平家166年 →明治 )
上田城大手門 Go to Home |
上田城の鬼瓦の松平氏家紋
(五三の桐)
昭和60年
修復工事
上田城の家紋は、
真田氏:六文銭 紋
仙石氏:永楽通宝 紋
松平氏:五三の桐 紋上田城大手門
平成6年
復元工事冬の上田城
(西櫓)
西櫓は江戸期から復元修理はない上田城西櫓
当時石垣の下は千曲川が流れ、南側からの攻撃に対して、守りに利用していました。 上田城の別名を尼ヶ淵城とも呼び、全国でも数少ない実戦経験を持つ城の一つです。上田城内堀と
桜並木から
太郎山( 海抜1160m 上田城北1km )を眺む
西櫓前には、築城の折、城内から太郎山までの地下道抜け穴が掘られたが、 その入り口が今だ残存しています。実戦向け城つくりの 手法、又、戦い方手法は真田昌幸・真田幸村の名を天下に響き渡らせたのも うなずけるものです。太郎山は、北の守りの自然要塞であった。江戸時代の藩校後地(上田城の隣り)から太郎山を望む。
現在は、上田市立第二中学校になっています。
江戸時代の藩校で、当時ここで武士の子息が勉強に励んだ。 明治期になり、上田市立南小学校が設立されました。
昭和13年に上田市立中央小学校と 合併し、上田市立清明小学校と改名され移転しました。
その後、上田市立第二中学校となり、現在に至っています。
手前のテニスコート(長野県立上田高等学校)は、当時上田藩主の生活の場であった 藩主館あとの一部です。現在は、上田高等学校のグランドの一部です。
第二中学校と上田高等学校は隣接しています。上田藩 藩主館跡
現在は長野県立上田高等学校
江戸時代の藩主館跡で、塀、校門、堀、樹木など 当時のものが、今だ大切に保存されています。
城下町上田市の貴重な歴史建造物の一つになっています。
1583年武田信玄家臣真田幸隆の子昌幸が上田城築城(1583年)。
豊臣方についた昌幸、幸村は1600年に高野山に配流され、
徳川方についた信之(昌幸の長男)が1622年まで上田を統治する。
戦国の世、親子で敵、味方に別れ、真田氏の生き残りを考えた戦略は見事花を結んだ。
真田家は1622年に現長野市松代町へ移封( 松代藩 真田家 明治まで250年間統治。この理由は真田信之の正室(妻)が、徳川家康の
養女「小松姫」であったため、家康の命で真田家は移封するべからずの「お墨つき」を拝領したため。 )。

上田城は天守閣は造られなかった。
戦術的に上田城の位置設定は、千曲川が南櫓のすぐ下を流れ、
南方からの敵の攻めに対し、格好の自然の防衛とした。(このため「千曲川 尼が淵城」とも当時呼ばれた)
北方は、太郎山(城内には太郎山までの地下抜け道の入り口が残されている)が自然防衛フェンスであった。
東方は、防衛フェンスがないため、真田氏の知恵で、城下町の東外側に等間隔に寺(南から北に向け、日輪時、宗吽寺、
願行寺、月窓寺、本陽寺、大輪寺 西側は見方側なので堀と芳泉寺の一寺)と墓地の設置と、
道路のクランク化(枡型道)で、敵(徳川方)の進入に防衛した。
二度(一次(1585年)、二次(1600年)上田合戦)にわたり、東方からの徳川勢を撃退させている。
二次上田合戦では、徳川二代目将軍秀忠軍を真田勢が足止めして、天下分け目の関が原の合戦に、
間に合わせなくした話は、あまりに有名です。
上田藩主となった松平氏は、藤井松平氏と呼ばれ、三河以来の徳川一族庶家で、 14松平氏の一つであり、家康より4代前の長親の五男利長をその祖とする。 利長は三河国碧海藤井(愛知県安城市)を本拠としたため、藤井の松平と呼ばれ、 宗家(徳川氏)の旗下にあって活躍した。 利長は永禄3年(1560)戦死しているが、その後の藤井松平氏は信一、信吉と継いでいる。 信一は天正18年(1590)の家康の関東入封にあたっては、下聡布川(茨城県利根町)5千石を宛行され、 関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)には、その戦後処理の恩賞としてであろうが、 一躍常陸土浦3万5千石に封ぜられている。その継嗣信吉は、元和3年(1617)上野高崎5万石へ 加増転封となり、同5年には丹波笹山へ転じている。この年、信吉の次男忠晴が別に常陸において 2千石を与えられ分家独立した。この忠晴が後に上田藩主となる松平氏の初代となるのである。 (上田市立博物館発行「松平氏史料展」より)
■ 上田藩の詳細説明(上田市立歴史博物館のサイトへ)