真田氏でその存在がはっきりしているのは,真田昌幸の父であり,真田信之・真田幸村の祖父にあたる
真田幸隆(武田信玄家臣)からである。
長野県東御市東部町の古代からの名族
海野氏の分家として,以前より真田の地に土着していた真田氏があり,そこへ海野棟綱の娘が嫁ぎ、
生まれた子が真田幸隆である。
天文10年(1541年 戦国時代)海野地区(現東部町)を本拠とする海野氏が,武田,諏訪,村上の連合軍
に攻められ,敗れて没落する合戦(海野平合戦)があった。
この敗戦により海野氏の一族であった
真田幸隆も,真田の地より上州(群馬県)へ逃げたといわれる。
しかし真田幸隆は,この合戦後間もなく,天文13年(1544年 戦国時代)頃には,武田信玄の家臣となっている。
真田幸隆は,武田信玄に重要され,「信州先方衆」の旗頭として,長野県東北信地方の攻略に
活躍している。
即ち,上田原,戸石,塩田城,川中島と続く合戦に,常に武田勢の第一線で参戦していたのである。
さらに真田幸隆は,武田信玄の命をうけ、鳥居峠を越え,北上州の吾妻郡へと転戦する。
この地での真田幸隆の活躍は,やがて子の真田昌幸にうけつがれ,北上州(群馬県)一帯が真田氏の大領地と
なっていく。
天正11年(1583年 戦国時代)長野県小県郡(ちいさがたぐん)の武(たけし),丸子,和田,大門地区の武士が徳川家康に背いたので
真田昌幸がこれらの諸士を攻め,丸子で合戦が行われ,長野県小県郡(ちいさがたぐん)を統一した。
そしてこの天正11年(1583年 戦国時代)の上田築城は,その前年の主家武田氏の滅亡に続く大動乱の中
で,長野県小県郡(ちいさがたぐん)統一を展望する真田昌幸の打った一つの布石でもあった。
周知のように,天下分け目の関ヶ原の合戦により,天下の政権は完全に徳川家康の手に帰した。
真田昌幸の領地上田,小県(ちいさがた)は,徳川方についた昌幸の長男,真田信之に与えられた。
一方,豊臣秀吉方についた,真田昌幸,真田幸村(昌幸の次男)父子は信之の必死の助命嘆願により,死罪は免れ,
和歌山県高野山へ追放されることになった。昌幸は慶長16年(1611年)
この高野山麓九度山において65歳で病没する。
智勇かねそなえた名将であり,真田の名を上げた昌幸であったが,その晩年はさびしいものであった。
真田昌幸の長男,真田信之は,これ以後は上田城にあって,上田,小県郡(ちいさがたぐん)の経営(1644年まで)に積極的に乗り出す事になる。
その後,真田氏は長野市松代町へ移封(1644年),上田城主は,仙石氏(80年間),
松平氏(160年間 幕末まで)と推移して行く事になる。
―参考文献:上田市立博物館発行 「真田資料展」より―
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