信綱寺

真田源太左衛門尉信綱は、真田幸隆の長男として生まれ、天正2年(1574年)5月、父(幸隆)の死によって真田家を相続する。
この時信綱は38歳、武田24将の一人に数えられているように、既にひとかどの武将として知られた存在であった。

この相続以前より、父幸隆が群馬県吾妻の前線を固めるのに主力を置いていたのに対し、長野県小県の本領は、 信綱がその支配をまかせられていた。
しかし信綱は、天正3年(1575年)、愛知県長篠の合戦で戦死してしまう。
真田家の当主となって、わずか1年後の事であった。

長篠合戦

天正3年(1575年)5月、 三河国(愛知県)長篠城を攻めた武田勝頼軍と長篠城救援にかけつけた織田信長、徳川家康連合軍が長篠城外の設楽原(したてはら) で激突した戦い。

織田軍の3000挺という大鉄砲隊の前に武田の誇る騎馬隊が潰滅したもので、 日本の軍事史上一大画期となった戦闘として有名である。



真田一族 松代藩(10万石 長野市 松代町)

真田家初代
二代
三代
四代〜十一代
十二代
十三〜十五代
十六代
@真田幸隆
(1513〜1574)
(武田信玄家臣)
真田信綱(長男 戦死)

真田正輝(次男 戦死)

A真田昌幸(三男)
(1547〜1612)
(武田信玄家臣)
B真田信之(長男)
(1566-1658)
(松代藩初代)

真田幸村(次男)
C真田信政
D真田幸道
E真田信弘
F真田信安
G真田幸弘
H真田幸専
I真田幸貫
J真田幸教
K真田幸民
(1850-1903)

明治維新
L真田幸正
M真田幸治
N真田幸長
O真田幸俊

(現在 東京在住)

真田一族と家臣団(只今制作中)

寛永十年分限帳(真田信之時代)(只今制作中)